人に見られたら恥ずかしいブログ

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学歴と民族

 今回はちょっと脱線します。前回の続きで③とやるつもりだったのですが、②を書いた後にちょっとこっちを書いてみたくなりました。

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 桜にも格というものがあるそうです。どんなルーツを持つか、どこに生えているか、どんな逸話があるかという、本来の花の美しさとは関係のないところに価値を見出そうとする人がいます。そもそもで言ってしまえば植物にとっては花の美しさはあくまで実をつけるためにしかたなく磨くものであって、これは手段であるわけです。花を嗜む人間の中に、果たして手段と目的の倒錯をきちんと理解している人がいるのか、という話を友人としたのですが、友人曰く「その背徳感を楽しんでるのでは」ということだそうで、ますます全国の花屋さんに真相を伺って回りたくなりました。

 どうしてこんな話になったのかというと、その友人も第一志望には受からなかったのですが、駄目だったから浪人したいと親に訴えたら「大学で何を学ぶかが大事だろう、お前はブランド意識で動いているのか」と言われたそうです。正直、大学選びでブランドを意識しない高校生なんていないと思うんですが、私は少なくとも「Fランの癖に」「ニッコマンの癖に」「宮廷落ちの雑魚がイキんな」というような「煽り」をネットリアル問わずあちこちで見てきたので、将来誰かと言い合いになったときに攻撃材料として学歴を持ち出されることのないように、安直な学校は受けなかったわけです。その結果がこうなのでなんとも言えないですが、生涯賃金が少し減ったところでその分不快な思いをしないで済むのなら、お金の許す限り再挑戦し続けざるを得ないと思います。

 

 学歴はある種の身内意識を作ると思います。中央では東大閥一橋閥などと呼称があるように、丸紅に入るには慶應でなければいけないだの、信憑性はともかくとして、就職の有利不利に大きく関わる「暗黙のルール」があるようです。学歴ナショナリズムとでも言いましょうか、同じ大学、同じレベルの人間を囲いたがる節があるように感じます。MARCHという大学の括りがありますが、本来予備校などが難易度を括るためにはじめた呼び方であるのに「あの人はマーチレベルの人間だ」という具合に、その人の優劣を決める指標として扱われることもあるでしょう。

 桜の話ではないですが、人間として優れているかどうかといったナイーブな話では学歴が先行しがちです。その人個人の出来不出来を測るために属性を見られますが、より大きなウェイトを占めるものがこれだと思います。こういう意識が更に尖鋭としているのが、今の韓国だと思います。

 韓国人じゃなくて本当によかったとはこの頃強く思うものですが、当然これは「韓国の教育制度に組み込まれていなくてよかった」という意味です。韓国を否定する気はありませんし、同様に日本を肯定しているわけでもありません。

 しかし学歴は一応、学生当時どれくらい勉強が出来たかを測るバロメーターとしての意味はあるわけです。ところが同じような感覚で「あいつは何人だから程度が低い」といった具合にのたまう輩がいます。僕に言わせれば、国籍で頭の良し悪しを判断することほど愚かなことはありません。大昔に白人が黒人は馬鹿だと言っていたのと同じくらい馬鹿らしい。僕が政治家の中で尊敬しているセレツェ・カーマは黒人です。言っちゃアレですが、当時のローデシアの白人為政者よりよっぽど出来た人です。

 

 韓国に限らず、黒人や中東人を未開の人だと馬鹿にする人が時々ネットにいますが、本気でそう思っている人はきっと実際にその人と会って話したことがないんだと思います。

 白人でもどうしようもない人はいますし、黒人でも秀才はいます。一昔前のようなあからさまな差別意識の具現は現実ではあまり見られなくなりましたが、どういうわけだか白人から見たら劣っている黄色人種をして、黒人に対して悪感情を持っている人がいるのですから驚きです。

 何をどうしたらそんな邪心が吹き飛んでくれるのか分かりかねますが、どうか世界中の人たちが、民族だとかどうしようもないことでヒエラルキーを決定せず、同じ「人間」という括りで地球を見渡せるようになってほしいと願うばかりです。そして真っ先に、日本人の中でこのような馬鹿げた思想を信奉している人が一刻も消え去るように願っています。○○人を殺せ! 追い出せ! などと勇ましくヘイトを振りまく連中が「黄色人種は程度が低い」という意識を海外の人に植え付けかねないからです。