人に見られたら恥ずかしいブログ

人に見られたら恥ずかしいブログです

自殺しようとしていました

 先日、自殺しようとしました。

 結局できなくて今こうして生きているわけですが、忘れないうちに顛末をここに記しておこうと思います。

 

 原因は模試の結果でした。

 しょうもないと思う人が大多数だと思います。そのまま思っていただいて結構です。実際しょうもないんだと思います。

 別に命をかけていたとかそんなことではないんです。志望校がE判定だったら予備校を解約するとは確かに親と約束していました。そしてE判定でした。問題はここじゃないんです。

 一番力を入れて勉強して、そのために他教科の時間を削ったり睡眠時間を削ったりして、かつ解いたときは自信満々で初めて5分余って見直しをして、自己採点の点数が横ばいでも「問題が難しかったからみんなできなかったに違いない」と信じて疑わなかった英語が。

 50点/200でした。

 ペーパーで返される前日に携帯に速報値が入ってきました。唖然としました。今までこんな点数は見たことありませんでした。メールチェックして、アドレス突いて、感情が突き落とされました。視界が次第に狭くなっていくような感覚になり、ふと気づくと額から首まで汗だくになっていました。

 呆然から時間差で失望が追いかけてきました。自分自身への失望です。限界を知るなんて言い方をしたらおこがましいかもしれませんが、浪人生活の集大成くらいに思っていた模試で過去最低点と初の偏差値30点台を取ってしまい、自分は何をしてきたのかわからなくなりました。

 突いたのは帰りの電車の中でした。動悸が止まらないまま家に帰り、時間も遅かったので眠気とごたまぜになって半ば朦朧としながら、流れるようにご飯を食べ、シャワーを浴び、そのまま寝ました。

 

 朝はそのことを覚えていませんでした。

 自分でも不思議ですが、何も思い出さず、何も感じないまま、なんとなく予習をして授業を受けました。

 チュートリアル(模試返却)の時間の直前になって初めて、今日がチュートリアルであったこと、模試が返されることを思い出し、一瞬にして動悸が来ました。手の汗を何度もズボンで拭いました。

 結果を見て改めて呆然としました。重点的に勉強した部分が横ばいで、今まで解けていた部分がほぼ全滅していました。

 努力が否定されると同時に「もう間に合わない」という事実を突きつけられました。僕が志望校に悠々受かるには前回の模試であと100点必要でした。その為に避けては通れない「穴」を埋めるつもりがまったく埋まらず、余計な穴まで開きました。新たな穴を埋められたとしても、これ以上のことはできないでしょう。

 僕はもう、これ以上なんの努力をしても無駄だと諦めました。

 大学に受からず、このまま就職して、僕には何があるでしょうか。どういう将来を過ごすでしょうか。それは僕が今までしたことに見合うでしょうか。これからするであろう努力に見合うでしょうか。

 いろいろなことを考えて、僕はこれ以上生きるのは無理だと直感しました。

 

 

 別に今回が要因の全てではありません。僕は過去に何度かの自殺未遂をし、大体未練や恐怖に打ち勝てず現実に引き戻されてきました。元々僕は自分に価値があるようには考えていませんし、死ねと言われたら死ねるように、突発的に死にたくなったときに死ねるように常に遺書(のようなもの)を持ち歩いています(と昔別のブログに書きました。)

 いつも「今回で終わりにしよう」と思っていましたが、今回も同じつもりでいました。自分に失望し、将来に絶望し、あらゆることに悲観的になると、プールに突き落とされて水面に蓋をされたときのような(経験のある人はあまりいないでしょうけど)肉体的にも精神的にも耐えられない不快さが全てを覆うのです。苦しく、もう二度とそんな目に合いたくないなら、その場で死ぬしかありません。

 

 僕は予備校から富士の樹海までのルートを計算しました。馬鹿馬鹿しいかもしれませんが、僕は前々から、次に死ぬなら樹海にしようと決めていました。

 僕はしょうもないコンプレックスを抱えて生きています。本当にしょうもないと思いますが、僕のアイデンティティであり、それを無視することは耐え難いことです。

 僕は幼稚園から中学校まで友達がほとんどいませんでした。いたにはいましたが、障碍者学級の人、教室で浮いていたり嫌われたりしている人ばかりでした。自分が障碍者であることは後になって分かったし、実際僕も浮いていたり嫌われたりしていました。彼らとは刹那的に遊んだり喧嘩したりして離合集散を繰り返していました。僕は確かに浮いていて、嫌われていました。当時は原因が分かりませんでしたが、今になってみれば当時の僕はうざい奴でした。顔も声もキモいし空気も読めないし、家庭の都合でテレビを一切見ないからなんの話相手にもならないクラスの粗大ゴミでした。

 社会から除け者にされて生きてきた僕だから、せめて最後は大勢の人と共にいたいという思いがあります。

 飛び込みは孤独です。飛び降りは孤独です。服毒も首吊りも孤独です。自殺は多くの場合人に迷惑をかけ、死してなお煙たがられるものです。

 富士の樹海は自殺の名所になってから数十年しか経っていないと聞きます。そこで毎年数十人も死ぬのです。樹海といっても広いので自殺者あたりの面積も広いでしょうが、大事なのは「ここ数十年のあいだに樹海で自殺した人が大勢いる」ということです。僕は彼らに混じって、集合体の一部になりたかった。そんな漠然とした「夢」を描いて、僕が死ぬときは樹海の中だと思っていました。

 咄嗟にそのことを思い出して、僕はナビタイムやグーグルマップを使って交通費や所要時間を調べました。縄は現地で拝借して、なければ最悪木によじ登って鋭利な場所に頭から落ちればいいくらいに考えていました。本当に詰めが甘くてお恥ずかしい限りですが、それほど焦っていて、どうにかなりそうで、どうかしていました。

 一通り調べ終えて、なんとか所持金で足りそうなこと、そんなに時間がかからなさそうなことが分かって、僕は油断しました。これで仮に生き残ってしまったらどうしよう、前みたいに失敗して誰かに見つかったり帰ってきたりして、それからまた勉強に復帰して再び絶望したらどうしよう、そんなことを考えました。もうずっと正気じゃないのですが、このときは特に気が狂っていたようで、何故か最後の踏ん張りと言わんばかりにものすごく勉強をしました。時間を忘れて英語に熱中していました。

 本当に長い時間やって、それで気づいたときにはタイムオーバーになっていました。今から電車を乗り継いでも、河口湖駅から先のバスがありません。

 僕は「あーっ」だの「ぐわーっ」だの言いながら伸びをしました。僕は今日中に死ななければならないが、樹海には行けない、どうしようと、やけに冷静になりながら考えました。

 そして何故だか「油壺」へ行こうと思い立ちました。

 

 油壺は三浦半島にある場所で、戦国時代に敵の軍勢に追い詰められた三浦一族がここに身を投げ、血だまりがまるで油が浮いているように見えたから油壺、という名前になった場所だと記憶しています。

 誰か大勢が死んだ場所、それも今から行ける場所で死のうと思い立った僕は予備校を飛び出し、駅へ向かいました。横浜駅から京急で終点まで乗れば三崎口に着きます。そこからバスか、なければ最悪徒歩で行こうと思っていました。

 しかしここでいつもの悪いクセがでます。僕は常日頃から本当にお金がないので切符は必ず金券ショップで買います。駅へ向かう途中に大黒屋という金券ショップがあるのですが、ここに横浜から三崎口までの切符があることを僕は知っていました。

 そしてまた考えます。仮に失敗して戻ってくることになったらどうしよう、駅で三崎口までの切符を買って、また予備校通いに戻ったときにそのお金がないのは苦しい、せめて金券ショップで買ったほうがいくらか安上がりだ・・・と。考えながら大黒屋の前をグルグル歩き、埒があかなくなってビブレの前に座り込んで頭を抱えるなどしました。

 しばらくしてから僕のところに鳩がよってきました。僕は鳩が好きなのですが、そのときばかりは構ってもらいたくありませんでした。僕は右に腕を振って鳩を追い払いました。八つ当たりです。そこを向かいのアンチャンに見られました。二人組で茶髪のパーマでしたが「あっ!鳩がかわいそうだろバーカ!」「鳩の気持ちを考えろバーカ!」とか言いながら寄ってきました。文章にするとかわいくなってしまいますが、実際は甲高い声で怒鳴るように寄ってきましたから、恥ずかしくなって脇のダイエーに逃げ込みました。店内を急ぎ足で歩いているうちに冷蔵品コーナーの冷気で頭を冷やされたのか、やはり自分が正気でないことに気づいて少し落ち着きを取り戻しました。樹海と違って三崎口へは電車でそうかからない、もう少し考えよう、そう思って予備校へ引き返し、だらだらと勉強をしました。

 再び我に返ったのは九時半でした。この頃になるとすっかり意気消沈していて、自殺の決意はどこへやら、死ぬか家に帰るかが自分の中で五分五分になるくらいまで下がってきていました。こう踏ん切りがつかないままでいることほど気持ち悪いものはなく、再び僕は態度を保留します。ここまで数時間の間でした決断と言えるものは、今日は家に帰らないということくらいでした。

 

 

 

 僕は家へ向かう道を逆送して桜木町へ向かいました。何かアテがあったとか良い死に場所を知ってたとかそんなことは一切ありません。死にたい、でも電車には乗れない、なら歩くしかないという、最低な消去法で選んだ道でした。

 あまり歩くことを想定していない重量を背負っていたので肩が疲れてしまいました。桜木町へついてからもそのまま南進しつづけ、大桟橋まで着いてしまいました。

 もう僕は疲れ切っていて、すぐにでも寝たい気分でした。一晩寝てから死ぬのでも大して変わりはないと、その時の一番の快楽を優先して行動するクズになっていました。

 大桟橋を散歩しているとカップルが沢山いました。どこに行ってもカップルがいて寝転がれるような状況ではありませんでした。浮浪者対策なのかベンチは全て二本の鉄棒を横に渡したものになっていて、段差がつけられているので横になって寝ることができませんでした。仕方がないので南側の人があまりいないエリアの少し突き出している展望デッキで地べたに横になりました。

 

 目が覚めたときには体中を蚊に刺されていました。たまらず起き上がると自分がいくらか回復していることに気づきます。時刻は一時過ぎ、既にカップルはほとんどおらず、陸上の練習と思しき大学生が外周を走っているくらいです。そろそろ本当に死のうと思った僕はデッキから下を覗き込みます。桟橋には船が停泊していて、船と桟橋を往復する人の姿が見えました。ここの高さは落ちても死ねるか微妙な距離で、仮に落ちてもすぐに発見されて生きながらえてしまうだろう、足をなくしたら本当に死ねなくなると思い断念しました。反対のみなとみらい側も確認しましたが、ここでまた要らぬことを考えました。いるわけないのですが、仮に象の鼻や赤レンガからこちらを双眼鏡か何かで見てる物好きがいて通報されたら助かってしまう、ここはやめようと思い至りました。

 今度は山下公園に移動し、ベンチで横になりました。ここで僕は勘違いを二つしていました。

 まず、僕は夜の山下公園をずっとハッテン場だと思い込んでいました。夜な夜なホモが押し寄せてきて盛り合っていて、近づけば犯されると勝手に想像していました。不謹慎な話ですが、いっそ病気を移してもらったほうが踏ん切りがつくと思っていたのでほんの少しだけ期待していたのですが、真夜中の山下公園にはほとんど誰もおらず、酔っ払いリーマンが二人、ホームレスが二人と、奥のほうで空気を読まずに花火を上げている家族くらいしかいませんでした。リーマンは少しして去り、ホームレスもそのうち寝てしまいました。僕も少し海を見ながらボーッとしたあとに就寝しました。

 

 もうひとつの勘違いとは、ここのほうが蚊が少ないという思い込みでした。

 次に目が覚めたのは三時半くらいです。ものすごい痒みでした。大桟橋の比じゃないくらい強烈なのがいたようで、後になって数えてみたらトータルで右足を13回、左足を9回、その他頭や腕などを沢山刺されていたようで、特に左手が腫れ上がっていて感覚がなく握ることもできませんでした。

 夜の山下公園はヤバい――― そう思った僕は、起き上がるには早い時間ながらも撤収を決めます。もう自殺の決意はどこかへいって、ひたすら心が折れていました。とはいっても電車はもうないので、朝までゆっくり歩きながら横浜へ向かうことになります。

 象の鼻を過ぎて赤レンガ倉庫についたとき、前の広場に車が止まっていたのですが、車内の電気が煌々とついていたので中を窺い知ることができました。端的にいうと男女が絡まっていたのですが、当時の冷め切った僕の心にはなんの劣情も沸いてきませんでした。ただ、眠い、痒い、もうだめだ、どうにもならない・・・そんなことで頭がいっぱいでした。

 電気のついていない観覧車は新鮮でした。あたりに人気はなく、コンクリートアスファルトが延々と続く世界はSF感がありましたが、二分に一台くらい車が通っていくのでまだ現世の実感がありました。アウディの前で四人の若い男子がスケートボードに興じていて、こんな時間に何やってるんだと思いましたが、思えば僕も「こんな時間に何やってるんだ」と言われてもしかたがありませんでしたね。

 止まった「動く歩道」を逆送するのは楽しかったですが、思い返しても何が楽しかったのか分からないので試す価値はないと思います。

 スタバ、ツタヤ、大塚家具と抜け、そのまま日産本社までついてしまいました。日産本社の中の渡り廊下を通って横浜駅に抜けるつもりだったのですが、開放時間は04:30からとなっていました。10分くらいあったので階段に座って街灯を頼りに文法書を読みました。ぼんやりした夢のような意識から現実への覚醒、その渡り廊下の中心で進みあぐねているような気がしてセンチメンタルになっていました。

 電気がついて警備員が扉をあけ、僕はその日最初の日産来訪者になりました。反対側へ抜けると横浜駅へのエスカレーターがあるのですがまだ閉まっていて、階段から降りてそごうの地下へ出ました。便意があったのでトイレに入ったのですが、力みすぎて血が出てしまいました。それからこの文章を書いてるあいだもずっと痔です。

 5時になり、僕はマクドナルドでグリドルを食べてから爆睡しました。7時半に目が覚めて、やる振りをしただけのノートを片付けて、足早に店を出ました。「普通」のおじさんがせかせかしくグリドルを頬張る様をみて、居心地の悪さと気恥ずかしさを覚えたからです。

 

 こうして僕は自殺に失敗しました。

 一晩中僕を探していたらしい親は僕のことをこっぴどく叱りつけました。

 結局勉強は続けることになったのですが、正直今でも受かる気はしていません。

 今年も落ちるんだろうなあと漠然と思いながら勉強をしています。

 今はまた、なんとなく生きています。しかし近いうちにいずれ、そうともいかない時期がくるのでしょう。そのときこそ僕は決断できるのでしょうか。たぶんそれも難しいような気がしています。